とある木の話(息子の寝る前に話した空想話のメモ)

 
ある場所に、一本の木が立っていた

 

その木は、ずっとずっと昔から、 人間が生まれる前からそこに立っている


その木は、ずっとずっと昔から、周りの景色を見、 川のせせらぎを聞き、鳥や動物たちと言葉を交わしながら、 生きてきた


その木がその場所に来たのは、遠い昔、それは、 恐竜が世界を支配していたとき


はるか遠い地でうまれた小さな彼は、 ある翼を持った恐竜に運ばれ、この地に落とされた


それから先、雨が激しく降る日も、風が強く吹く日も、 太陽が強く照る日も、そこに根を張り続け世界を見ていた


より大きく、幹を伸ばし続けた


ときに、彼の足元には小さな獣が穴を掘り暮らした


ときに、大きなフリルを持つ獣が、足元の草を食べに来た


ときに、鋭い葉を持つ獣が、その獣を襲い食した


ときに、彼より大きな獣が、彼が新しくつけた芽を求めた


ときに、翼を持つ獣が、巣を作り卵を生んだ


卵は大切に温められ、小さな翼を持つ獣の子が生まれた


彼にとって、初めてのことだった


小さな小さな子らだった


小さな声で大きな親を健気に呼び続ける子らだった


彼は、愛おしいと思った


彼は、守りたいと思った


彼は、その小さな声を聞きたいと願い


音を聞いた


彼にとって、初めてのことだった


彼の世界に、愛と音が溢れた


親のいない日は、彼は張り切った


風が強い日は幹をしならせ、巣が落ちぬようかばった


雨がふる日は、枝を重ね子らを濡らすまいと守った


太陽が照りつける日は、葉を揺らし優しい風を送った


星が美しい夜は、枝を大きく広げ、葉を寄せ


子らに流れる星々と外の世界を見せた


子らの言葉に耳を傾け、親が歌う歌に子らと共に身を委ねた


彼は幸せだった


彼は満ち足りていた


この幸せが長く続くことを何よりも望んでいた


ある夜、見たことがないほど大きく、明るく、 赤い星が地平線の向こうに流れた


初めての光景に、


彼は幹を大きく伸ばし、枝を揺らし、葉を反らせ、


子らにその不思議な光景を見せた


子らも、口を開け、目を見開き、首を伸ばし、


興奮した様子でその光景を見つめていた


その時


地平線の遥か彼方が光った


熱い風が、感じたことのない熱く暑い空気が塊となり、 彼らを襲った


ドン


彼方で、彼方とは思えぬ音量の低音が響き来た


木はとっさに、幹を太く縮め


枝を固く閉ざし


葉を強く重ね


子らを胸の中に匿った


木は、感じたことのない熱と風と音を感じながら、 長い間そうしていた


ふと静かになった


あたりを見回すと、何もなかった


光さえも、なかった


自身の枝葉さえも、固く閉ざしていた子らの周り以外は


なかった


しかし、子らは生きていた


弱々しくも、生きていた


喉を枯らし、腹を空かせ、小さな声を上げて、親を、水を、 食べ物を


霞む目を薄く開けて求めていた

 

木は、子らを守った


黒い塵が吹き荒れる日も、


熱い雨が降る日も、


足元を何かが流れていく日も


ただただ、子らを守った


幹から吸い上げる濁った水から甘い蜜を作り


枝の先に小さく柔らかい葉を作り


ただただ、子らに与え続けた


子らが大きくなるのを、見守り続けた


そのうち、木は気づいた


子らの親はもう帰っては来ないことを


子らの独り立ちの時が近づいていることを


子らに与える力が尽きようとしていることを


彼は子らに伝えるべきだと思った


私から飛び立ち新しい地を、美しい水を、 生きている仲間を探すべきだということを、伝えるべきだと思った


それが子らの幸せだと、強く思った


彼は伝えたいと、伝えるべきだと、思い願った


彼は、言葉を発した


これまで聞いてきた言葉を必死に思い出しながら


細切れの言葉を発した


子らは、静かに木を見上げ、その声を聞いていた


やがて、子らは飛び去ることを決意した


しかし、いきなりは飛べなかった


何度も羽ばたき落ちる子らを


木は残り少ない枝を伸ばし、擦り切れた葉ですくい上げた


子らはみな、飛び立った


その後ろ姿を、木はこの上ない幸せを感じながら見送った


木はこの上ない達成感を味わっていた


木はもうやりたいこともやれることもない、と満足していた


木は、そっと世界を閉じた


辺りは、静かになっていた


塵は地に落ち、雨はやみ、炎もない、静かな闇になっていた


長く長くその闇に委ね、自らの終わりに向け漂っていた


どのくらい時がたっただろう


木は、音を聞いた


高く通る音を聞いた


木は、そっと意識を取り戻した


木は、大きくなった子らの存在に気がついた


辺りは未だ暗かった


木は、冷たく透き通る水を感じた


子が口に含んでいた美しい水を、葉と枝に与えたのだった


木は、暖かな栄養を根に感じた


子が羽に乗せた土を、むき出した根に与えたのだった


木は、光を感じた


子らの後ろに、光を含んだ雲が見えたのだった


木は、言葉を聞いた


子らが、優しく木に語りかけていたのだった


あなたの存在が


いかに暖かかったか


いかに優しかったか


いかに守られていたか


いかに幸せだったか


いかにあなたに生きていてほしいか


もう辿々しくも、弱々しくもないその言葉の数々を


木は静かに聞いていた


静かに受け取り、理解し


涙した


あぁ、幸せとは続いていたのだと、思った


木は、再び幹を伸ばした


足元のぬかるんだ土に根を伸ばし


黒い空気に枝を伸ばし


葉を開き


命を取り戻した


雲が切れ、光を取り戻した


辺りは一面、なにもない大地だった


しかし、足元は確かに地面だった


感じる風は酸素で、光は明るかった


足元には、小さな苔の塊ができていた


足元からは、小さな虫が這い出していたことに、気がついた


やがて、苔は草となり花になった


やがて、虫は羽を広げ飛び、蜜を吸い、色を得た


やがて、風は澄み、光は暖かになった


やがて、子らは木に巣を作り、更に子供を作った


やがて、世界は再び色と命に満ち溢れた


木は再び、安らかな幸せを手にしていた


木は再び、長く長く幸せな時を過ごした


もう終わることがないようにと、新しい命とともに歌った


しかし


木は再び、暗闇を見ることになる


一方的で理不尽で何も産まない闇を


それは、また別のお話で